今日は私の祖父のお話をさせてください。
私の祖父は埼玉県の田舎で生まれ、戦争の時は陸軍として招集されました。
詳しい戦争の話は祖父本人から聞けていませんが、父から聞いた話がほとんどです。
祖父は、私の家の前にある叔父の家の庭で家庭菜園をしていました。家庭菜園と言っても、40㎡以上あったと思います。
畑にあるのは、季節ごとに違う野菜。大根、ねぎ、茄子、ピーマン、夏にはトウモロコシがたくさんなっていました。
夏が来るたびにまたおいしいトウモロコシが食べられる!とよろこんでいた思い出があります。
祖父は少し離れた場所に住んでいたので、自転車で来て畑を耕した後はうちに来て
「牛乳を一杯ちょーだい!」と言って飲んで帰ります。
祖父は畑が趣味なんだな、と思っていました。
祖父の家に遊びに行くと、必ずバナナが置いてあります。
ある日、「じーちゃんってバナナ好きだよね、いつもあるもん。」と子供の頃の私は祖父に話しかけました。
「戦争中に食べ物がなくて、まだ熟してないバナナを食べてたんだよー。現地の人がやさしくしてくれてね、食べ物わけてくれたの。じいちゃんね、南の島にいたんだよ。」
と教えてくれました。その頃の私は戦争というものをまだわかっていません。
ただ、50年くらい前に現実にあったことなんだな、とその時少しだけわかった気がしました。
その後、祖父の家に行って神棚の下の引き出しから白黒の写真がたくさん入っているアルバムを見つけました。
幼い私の中では「アルバム=楽しい思い出」です。
写真の中の人は全員軍人さんの恰好をしていました。10代~20代の若い青年がたくさん写っています。
「じーちゃん、これ誰?じーちゃんどこ?」
祖父は、一人一人の名前を伝えながら
「〇〇さん、戦争で死んじゃった・・。この人は〇〇で亡くなっちゃったんだったなぁ」
なんて悲しい顔をしながらも淡々と教えてくれます。私に言っているというより、一人で思い出しているような。
私は、この写真に写って笑っているお兄さん達が戦争で亡くなったと聞いて子供心にすごくショックを受けました。
やっぱり、戦争はあったんだ。じーちゃんも戦争を体験した人なんだ。
父伝いに祖父の戦争の話を聞くと、ハルマヘラ(インドネシア)に派遣されたそうです。
引き揚げるのも大変だったそう。
私が知っている祖父は、背が高くて、イケメンで、少し天然なところがかわいらしい、バナナと牛乳が好きな魅力的な人です。
私が私立の中学に入学すると聞いた時には、新聞紙に大金をくるんで持ってきてくれました。
埼玉の土地を多数持っていましたが、人柄の良さから騙されて安く買われてしまったなんてことも後から知りました。
戦争から帰ってきた祖父は、非常に荒れていたそうです。信じられませんが、ちゃぶ台をひっくり返したり家で暴れていたなんてことをいとこからこっそり聞きました。
今でも信じられませんが、戦争で大変な思いをしてきたからこそそうなってもしまってもおかしくないと思います。
国のために命を捧げて、まったく知らない土地で人を殺めなければならない、そんな状況考えられません。
祖父の家には「天照大御神」という大きな掛け軸が飾ってあったので、信仰も続いていたように思います。
畑を耕したり、バナナが好きだったことに後々納得しました。あぁ、あれは悲しい体験から身についてしまったんだな、と。
埼玉の田舎だと、長男が一番で長男の子供が大事、という古い考え方がありました。実際、私の家でもそうでした。
私の父は次男なので、親戚が来ていても私は「次男のとこの子か」なんて興味なさそう。
でも、私は祖父が大好きでした。私は親戚の中で一番下の末っ子で甘やかされて生意気な子供でした。
私にとって祖父は、気を使わない、なんだか気が合う、すごく居心地のいい存在でした。なんとなくですが、祖父も私を「次男の子供」というより仲のいい孫と考えてくれていたんじゃないかな、と思っています。
祖父が亡くなったのは、私が大学生のときでした。お休みの日で、近所で春祭りがやっていた日でした。
祖父は晩年、少し認知症が出てきてしまい数年老人ホームに入っていました。
私は大好きだった祖父なのに、老人ホームに入ってから会いに行きませんでした。本当に酷い話です。
ある日、珍しく私が家に居る日と、父と姉の休みが被りました。
その日のお昼、母が祖父のお見舞いに行った時は母を誰かわかっていなかったそうです。
その日の夕方、父と姉と私の3人で祖父のお見舞いに行こうという話になりました。
母には、たぶん行ってもわかんないと思うからね、と伝えられていました。
私は久々に会う祖父が、認知しない私と会ったらどういうリアクションするのか複雑な思いのまま車に乗りました。
久々に会った祖父はベッドに横になっていました。こちらを見て少し口を動かしています。
もしかしたら、私のことわかるかな?
「じーちゃん、私!!〇〇だよ!!わかる?」
頷く祖父。
「じーちゃん、お父さんと△△(姉の名前)だよ!わかる??」
頷く祖父!
「じーちゃん、また来るね!元気でね!」
すると、体を上げて笑って手を振ってくれました。
私は興奮状態で帰宅して母に報告しました。
「じーちゃん、私たちのことわかってたみたい!手も振ってくれたんだよ!」
母も驚いていました。
翌日、寝ていると母が慌てて私を起こしてきました。その日は天気のいい春の日でした。
「おじいちゃんがね!危篤なんだって!」
私は慌てて着替えて老人ホーム併設の病院へ向かいました。
到着すると、長男である叔父、祖父の妹と弟が来ていました。
「兄さん頑張って!まだ大丈夫よ!」祖父の妹が体をさすっています。
私は、あぁ、じいちゃんはもう行ってしまうんだな、昨日挨拶させてくれたんだなとボンヤリその光景を見ていました。
実は私は、祖母が亡くなる時も前日にお見舞いに行って話をして、亡くなった日は祖母の家で亡き祖母を迎えた経験があります。
きっと、最期の挨拶をさせてくれて、最期を迎える時を立ち会わせてくれたんだなと思っています。
戦争で想像を絶する体験をしたであろう祖父。きっと、加害者でもあると思います。
私は死後の世界や宗教などはよくわかりませんが、祖父のしたことが少しでも許されるよう、ただただあちらでの祖父が楽しく過ごせることを祈ります。
数年前、神楽坂近辺に住んでいた時、過去の過ちを懺悔できるというお寺を知り、自分の過去の過ちと共に祖父の過ちを懺悔しに行ったこともあります。
気になる方は行ってみてくださいね。
私にとっては大好きな祖父です。どうか、じいちゃんらしく、楽しく過ごしてください。


