今日は祖母のお話をしたいと思います。
祖母と話していると、そんな体験したの!?と驚かされることがあります。
自ら戦争の体験を話すことはありません。ポロっとすごいことがたまに祖母の口から出てきます。
祖母の生い立ち
私の祖母は、東京目黒で小学生まで育ちました。当時にしては珍しい赤いベレー帽をかぶって登校したり、それはそれはおしゃまな子供だったのよ!と楽しく話してくれます。
同級生には、白洲次郎さんのお子さんもいらっしゃったそうです。まさか、祖母の口から歴史上の人物が出てくるなんてビックリ仰天でした。でも、それは序章に過ぎません。
祖母の父は沖電気という会社に勤めていて、転勤族だったそうです。
小学生の途中からは広島県呉市で育つことになります。
広島県呉市の女学校時代
祖母は1930年生まれですので、戦争中は女学生です。
広島県呉市と言えば、海軍の街。女学生だった祖母も軍需工場で働くことになります。
あとあと母から聞いた話だと、戦艦の部品を作っていたりしたそうです。
毎日毎日空襲があり、毎朝母親と離れる際は最期の挨拶だと思って二人とも泣きながら家を出ていたそうです。
今では「この世界の片隅に」でも有名になりましたが、軍施設が発達していた呉市は大規模な爆撃を何度も受けていました。
祖母は孫には戦争の話はしませんが、母伝いに聞くことがあります。
私が小学3年生の時、おじいちゃんやおばあちゃんの戦争体験を聞いてみんなで共有しましょう、という授業がありました。
その話をすると、父も母も少し困った顔になり
「あんまり話したがらないと思うから、私が話すね」
と母から聞くことになりました。
そこで、呉市が海軍の重要地であったこと、祖母が毎日死ぬ気で工場に通っていたこと、同級生や親戚が戦争で亡くなったこと、幼い弟たちがたくさんいて大変な思いをしていたことを聞きました。
私にはもう一つ聞きたいことがありました。
それは原爆の話です。私は当時広島県の地理がわかっていなかったので、広島県のどの範囲で原子爆弾が落ちたのかも理解していません。
「おばあちゃんってずっと広島にいたんだよね?原爆大丈夫だったの?」
「遠くにキノコ雲が見えたみたいだよ。噂で新型爆弾が落ちたって聞いたみたい。」
私は絶句しました。
まさかあの広島の原爆を目撃しているなんて。
小学生の心の中に、ものすごく大きな大きな衝撃を受けたのを今でも覚えています。
私の祖父(この祖母の夫)も転勤族だったようで、私が生まれた時祖父母は広島県三原市に住んでいたのですが、私が生まれてからは祖父の実家の高知県に引っ越していました。
なので祖母が広島県にいた、というのは私には馴染みのないとことでした。
ですが、その話を聞いてから「祖母は激動の時代で激動の人生を歩んでいたんだな」と痛感しました。
おそらく、原爆の惨状を目にしたに違いありません。今でも火事の映像を見ると戦争を思い出す、と口にしています。
今でも女学校時代の友人と広島県で落ち合って、当時の話をしたり一緒に生活を送ったりしています。
女学校の仲間とはとても結びつきが強く、昔から年に1回は必ず会っています。
きっと、思い出したくない記憶を当時の仲間と分かち合っているのではないかと思います。
同級生の父
私が高校1年生の時に、祖父母が私と姉を沖縄旅行に連れて行ってくれました。
大学1年生の姉と私は初めての沖縄旅行でルンルンです。
ツアーを予約してくれたのですが、2月という時期もあり他にツアー客がいませんでした。
そのため、1台のタクシーで主要な場所へ運転手さんが連れて行ってくれることになりました。
ツアーでは入っていなかった場所に祖母の希望で連れて行ってくれました。
旧海軍司令部壕へ行って、中を歩いていきました。とてもヒンヤリしています。
司令官室に着くと、壁に生々しい辞世の句が書いてありました。
書いたのは大田實という海軍司令官の少将の方です。
それを見て泣く祖母。その時、祖母の涙を始めて見ました。
「呉時代の同級生のお父さんなの。同級生のお父様がこんな・・・。同級生の大田さんはその後どうなったんだろう」
私と姉はびっくり!!私と姉もすごく悲しい気持ちになりました。同級生のお父さんの最期が、目の前に生々しく広がる、想像しただけで涙が出ます。
原爆や戦争といったことはあったのはわかっていましたが、自分の肉親から話を聞くと
「本当にあったことなんだ」
と身近に感じ、悲惨さを痛感させられます。
現在とこれからの願い
私が知っている祖母は、水泳が得意で、裁縫が大好きで、おしゃれで、いつでもニコニコやさしくて、ビールとお肉が好きで、とにかく明るくて若々しい人です。
90歳になる今もメールのやりとりができるくらいです。
そんな祖母は東京目黒育ち、広島県呉市で戦争体験、その後祖父と出会い三原市で生活し、今は祖母にとっては縁のなかった高知県で叔父と2人で過ごしています。
孫は私と姉だけです。そんな祖母にもひ孫ができ、両親や姉一家と私と旦那さんで高知に遊びに行った時は感慨深そうな顔で、とてもよろこんでくれていました。
平和に過ごしてくれているだけで涙が出そうになります。
以前、私が独身の時祖母と2人きりで高知の日曜市を見た後、喫茶店に行って女子会をしました。
祖母お気に入りのおしゃれなそのお店で、
「私、実は今同棲していて、その人と結婚すると思う!」
と報告したら祖母がキャッキャとよろこんで
「あなた、そういうのは早く言いなさいよ~!今日は何でも好きなもの頼んでいいわよ(笑)」
なんて女子の表情です。
私は32歳で結婚したので、割と遅かったこともあり、心配してくれていたんだと思います。
その後、旦那さんを連れて高知に会いに行った時はそれはもうゴキゲン(笑)
大変な思いをしてきた分、離れていても何か少しでも癒しや楽しいことをプレゼントしたい気持ちになります。
思春期の多感な時期を戦争で過ごし、戦後の大変な復興の時期を子育てに追われていた祖母の人生は想像すらできません。
悲しい体験は頭から消えることはないかもしれませんが、少しでも祖母に幸せな時間をプレゼントしていきたいです。
忘れがちですが、今当たり前に生きていられることに感謝しないといけないな、と書きながら痛感しています。